しりめつれつ

経験上、積極的に死にたいだの消えたいだの口にしたり泣いたり喚いたりしている時はまだ大丈夫だと知ってます。

本当にヤバい時は何もかもが「どうでもいい」となった時。

私の人生で一番酷かった時は「何もしたくない」とすら思えなくて、もう完璧な「無」。

生きるのも死ぬのも面倒……という状態。

正直その頃のことってあまり覚えてないんだけどね。

 

前置きはこのくらいにして。

今年の12月以降、生きてる理由がないことに気付きました。

「来年◯◯のオンリー開催するみたいですよ!」と指摘はあったけれども、正直全く心が動かなかったんだよね……。

とはいえ死ぬ理由もないのは事実。

生きるのも死ぬのもと億劫にしか感じられない。

だから?と言われてもなんとも言えないけれど。

 

死にたいわけではないです。

でも生きたいとも思えない。

んー、なんだろ。

死んだら楽になるのかなあとも思うけど、それはそれで面倒だなって。

 

よく「生きたくても生きられない人の気持ちを考えなさい」と言われるけれど。

正直その人の苦しみと自分の苦しみって比べられなくないか?と思う。

生きたくても生きられないのは辛いでしょう。

でも、「だから私は生きなくては」ってなるかなあ……?なる人はなるのか。

「あなたの苦しみは大したことじゃない」とも言われるし、「他人の物差しで自分の苦しみは測れない」とも言われる。

 

うん。

 

で?

 

で?????

 

理屈としてはわかる。

だけどそういうこと考えたら『私の』心は救われるの?

これも経験則だけど「大したことじゃないのに辛いと思う私はダメなんだ」と思って余計落ち込まないか?

 

話が逸れた。

昔のことはどうでもいい。所詮過去は変えられないし。

書きながら自分の思考をまとめているので筋が通ってない気がしてますが今更かな。

読み返したり書き直したりするのはめんどいしなあ。

 

今は他人様のことを考える余裕は全くないです。

だから、傷つけないように距離を取る。

独りは辛いし寂しいけど、でも誰かを攻撃して傷つけるよりはマシかな。

私が辛い思いをしても自業自得だしねー

黙殺されたり嫌われたりするのは、まあ、慣れてはいないけど、よくあることだから。

大丈夫なんじゃない?

 

うん、「大丈夫」だと思えるから大丈夫だな。

考えるの面倒くさくなってきたしこれ以上書くのも億劫になってきたのでこの辺で。

 

結局何が書きたかったんだろ?

読み直すのかったるい。

自戒を込めて

まあ、うん。

 

私も買ったことあるし作ったことあるけど。

同人『誌』もだけど同人『グッズ』って相当危険なラインだよね……

何がどう危険なのかは調べたらすぐにわかると思うので割愛しますが。

 

作りたくなる気持ちはすごーくよくわかる。

でも『個人で楽しむ範囲』を超えたらダメ。

これは肝に銘じておきたいな……

 

私が作るぬいぐるみの服とかイメージアクセサリーとかはほぼ自分用。

ぬいの服は知り合いに頼まれて作ることもあるけど『プレゼント』なんだよね。

不特定多数には売りません。絶対に。

同人『誌』だって、私は自作をネットプリントにすることもしないし同人誌の値段をかかった費用以上に設定することもしない。

 

二次創作してる私がこんなこと書いても説得力はないと思うし私だって揺らいでしまう。

事実、知らなかったらぬいの服とか売ってたと思う。これは教えてくれたフォロワー様に感謝してる。

……なんかさ、怖いんだよね。

このままだと二次創作が全面的に禁止になる気がして。

 

何がダメで何がダメじゃないか。

もう一度ちゃんと考えないと、と自戒を込めて。

一次創作執筆中

匿名じゃないブログの加筆版。


一次創作を久しぶりにやってるんですが、なんかコレジャナイ感が半端ないです。もっと丁寧に書かないと……

でもすごく楽しいです。

設定とか正直ちゃんと考えてなくて見切り発車なので、書きながら登場人物たちと対話していく感じですね。

書き上げたものをどこかで発表するかどうかは謎ですが。

pixivとかなろうとか……うーん、どうかな。悩むな。個人サイト作り直す? でもセンスがないからなあ。

一次創作に強いところってどこだろう。


誰も興味ないと思いますが一応。

一昨年かな? ツイッターで書いてた「『俺』と『私』の物語」の前日談というかなんというか。

まあ「『俺』と『私』の物語」なんだけど、6組のカップルを順番に書いていく予定です。

メイン(?)の『俺』と『私』は……何番目だろ、多分4番目?

今書いているのは最初のカップルですね。ヒーローがちょっとヘタレかもしれない……

本当はイメージ画像とか描けたらいいんですが無理なので!

アバターを複数作れるアプリとかあったら作ってみようかな?

そのうちどこかでこのお話について語ってみたいです。聞きたいという人はいないと思いますが。


この話とは別に書いてみたい物語もいくつかあるんですが、同時進行できるかどうか怪しいので今のところ寝かせてます。

あとね、二次も書きたい。推しCPの本出せたらいいなと思ってます。書きたいテーマもあるし。読む人を選ぶテーマですが。

意欲が高まっているうちに書きたいと思ってる物語を書けたらいいなあ。

 

 


なんだかんだで筆を折るのは当分先のようです。

 

世界自閉症啓発デー

匿名じゃないブログの加筆版。

今日(4/2)は世界自閉症啓発デーだそうです。


ごく近い知り合い(というか、身内)に自閉症のお子さんを持つお母さんがいるのですが、彼女がFacebookにこんなことを書いていました。

 

「(前略)

なぜ挨拶が大事なのか。

話を聞くのに何が必要か。

言いたいことを言うのがいかに難しいか。

文字を文字と理解するとはどういうことか。

文章を読むということはいかに難しいか。

片足立ちをすることがいかに難しいか。

味や食感の異なる食材を同時に食べることがどれだけ怖いか。

なぜ毎日学校に行かなければならないか。

なぜ運動会の練習を毎日やらねばならないのか。

人の気持ちを考えるとはどういうことか。


世の中のあらゆることに忖度なんて一切しない息子に「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」と突きつけられ続ける毎日です。


(中略)


人口の約1割が「(診断はなくとも)自閉症っぽい」と言われているので、自閉症者と接したことのない人はほぼいないでしょう。

それだけありふれた障害です。

彼らの独特な世界観、強すぎる個性に、多くの人が寛容になってほしいと願ってやみません。」

 

 

私自身が発達障害のグレーゾーンだと思う(というかカウンセラーの先生にそれらしいことを言われた)ので、ちょっと立ち止まって考えさせられました。


彼女が意思疎通の難しい息子さんを育てる上でどれだけ大変な思いをしているか、私には想像することしかできないけれど。

最後の一文に全てが集約されているんだろうなと思いました。

前にツイッター発達障害者を産んだ親が悪い、みたいな発言を見たことがあります。

原文を忘れてしまったので曲解している可能性はなきしにもあらずですが、当事者の1人として非常に悲しかった。

発達障害者」の部分を他の言葉に変えても同じことが言えるでしょうか。

 

「気が利かない」「冗談が通じない」「すぐ体調不良になる」「空気が読めない」「興味のあることは過集中」「興味のないことは手をつけることすら苦痛」

自分で自覚している自閉症的な部分です。もしかしたら他にもあるかもしれない。

もう若いとは言えない歳なので少しは健常者に合わせることも覚えてきたけれど、まだまだ不慣れですし疲れることも多いです。

私の場合は一度メンタルもぶっ壊しているので余計にそう思うのかもしれません。

 

いわゆる「普通の人」になりたかった、と思うことも多々あります。

でも、そうではない。

自分でどうにかできる部分は引き続き対応できるように努力するけど、限界はあるかもしれません。

そうなった時、手助けするのが難しければ、せめて否定はしないでください。

 

「自分とは違う他人」を、自覚のあるなしは抜きにしても差別したり嫌悪したり排除したりする人は多いと思います。

私もそういう面があるしこれを読んでいるあなたにもそういう面があるかもしれない。

理解はできなくても「そうなんだね」と思える、そういう寛容さ……というか度量の広さは持ち合わせていたいものです。

液体の関係

匿名じゃないブログの加筆版。

 

私は誰かの『いつメン』になれるのだろうか?と考えた時に、なれない……なりづらいだろうなと思う。

別に独りが好きというわけではない。ような気がする。
「孤独癖がある」「ぼっち耐性がある」というよりは「そういう傾向にある」というだけで。
まあ、わりと昔からそうなんだけどね。
友達と外で遊ぶよりは部屋で本読んでいるような子どもだったから人間関係築くのが下手というのは大きな理由だと思う。

実際、「外で遊びなさい」だの「他の人の気持ち考えて」だのはよく言われた記憶がある。

後者は今でも時々言われるよね!

頭でっかちの鼻持ちならない人間であることは自分でも知ってるよ!!!


はい。
そんな私の人間関係の築き方って『液体』みたいな感じだと思うんだよね。
『固体』のようにしっかりした強固な関係ではないし、『気体』のように軽やかで自由な関係でもない。
来るもの拒まず去るもの追わず。
気分次第でくっついたり離れたり。
付かず離れず。
時の流れに身を任せてゆるゆる動いていく。
そんな感じ。

それが良いことか悪いことかは知らない。


『固体』のような『いつメン』に憧れないとは言わない。
『気体』のような『独立心』を持ちたくないとも言わない。

 

まあ、欲を言えば。
時々思い出して、「あいつ元気かな」と思ってくれればいい。
気が向いたら話しかけて、たまには遊んでやってほしい。


なんというか……
普段は意識されなくても、渇いた時にそっと潤せるような人になれたらいいなと思います。

そういう聖歌を中学・高校で歌ったような記憶があるよ。

水っていいよね。昔から『水』のモチーフや『青』系統の色が好きなのもこの辺が関係して……ないか。そりゃ違う話だよね。


なーんて、烏滸がましいかな?
というかやっぱり話ちょっとズレてるよね???

1年に2回

匿名じゃないブログの加筆版。

 

私は自分がクリスチャンかどうかはわからないけど、毎年クリスマスとイースターの時期はごミサに与りたくなるんだよね。心を落ち着けたくなるというか。
思い・言葉・行い・怠りによってたびたび罪を犯しているからその懺悔もしたいし……

あ、もちろん感謝したいことも沢山ある。


振り返ってみると自分の幸せってあまり祈ったことがないような気がする。
もちろんゼロではないけれど。
別に私が優しいとか思いやりがあるとかそういうことではないし利他的でもない。
早い話、私は自分の大事な人たちが幸せでいてほしいだけなんだよね。
ある意味では究極の自己中心的な考えなのかな。

どうでもいい人とか苦手/嫌いな人の幸せを祈ることは、私には難しいしね。

中学時代にシスターが「苦手な人を無理に好きになることはありません。でも、その人のために祈ることはできます」というようなことを仰っていたけれど。

でも正直私に嫌がらせしてきた人(この件についてはいつか記事を書く予定)のために祈りたくないぞー……


1年に2回くらいは『平和』を考える。
それが8月15日と12月8日。
1年に2回くらいは『愛』を思う。
それがクリスマスとイースター


私にはそれくらいがちょうどいい。

毎日考えてたら疲れちゃうし、私そんなに真面目じゃない。

 


平和とは言えない今の世の中だけど。
少しでも平穏が訪れるといいね。
あなたにも、わたしにも。
Amen.

あるいは

inşallah

(=そうなりますように)

新型ウィルス第五報プラスアルファ

全国的に感染が拡大しているのでまだまだ油断ならない状況ですね。

いつ収束するんだろう……

 

そんな中で私の事情がちょっと変わりまして。

身内にもし感染したら重症化するリスクの高い者がいるんですが、その者の症状が悪化してしまいました。

自分の中でまだ受け止めきれてないので詳しくは書きません(書けません)が、医者から「コロナに罹らないでください」と言われた程度には悪いです。

というわけで来年前半の予定の大部分はキャンセルせざるを得なくなりますね……。

コスの併せは中止もしくは延期、その他遊ぶ予定は極力減らすかやめる、観劇なんてもってのほか(正直これが辛い)。

屋外でのジョギングやハイキング、撮影散歩くらいならまだ大丈夫だと思うんですが、それも感染対策をきっちりしないと行けないかと。

習い事は家族と相談の上で休むか続けるか考える感じです。

コンサートやイベント、即売会もほぼほぼ諦めざるをえない気がしてます。

冬のシャニストも、短時間で素早くお買い物済ませれば大丈夫かなとも思いますが、そう何度も行けないでしょう。

 

で、だ。

問題はプリライ。

 

いつ開催するかわからないのでなんとも言えないけど、日程によっては参加できない可能性が浮上してきました……

その場合は同行者とも相談の上でどうするか決めます。

 

いずれにせよ、新型ウィルスがこんなに感染拡大してなかったらもう少し余裕があったと思う。

身内の症状が落ち着くといいけどどうかなあ……。

 

少なくとも春頃まではこんな感じになりそうです。

が、オンラインイベントだったり通話だったりはできるので積極的に参加したい。な。

それも精神的に余裕がなくなったら無理かもだけど。

でも息抜きというか気晴らしというか、そういうのも大事だと思うので。

 

仕事も楽しみも奪った新型ウィルスですが、今度は身内まで奪おうとしている。

私は新型ウィルスを許さない。